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TravelDiary
Travel Diary「ぼくらが旅に出る理由」


Mon 17 Dec 2001 その時私は何をしていたか。
9月11日。
私は新聞も最近とっておらず、そのころテレビも余り見ていなかったのだ。
NYのとある会員制ディスカッションフォーラム。
政治宗教を超えた、ある共通点で集まっているところなのだが、
(日本ではひんしゅくを買う問題なので、聞いてみたいことがあって入会(^-^;)
その朝、掲示板が大変なことになっていた。
会長はウォールストリートのディーラーなのだ。
「彼は無事なのか?」そして人種的な発言、
私がなんとか書き込んだお見舞いには「国の立場はそれぞれ違うと言うことを理解して欲しい」という返事があったり、(まったくだ。しかし、、とも思う)
私は私で頭の中では(全て神などいなくなれば)という考えに走ったりもしていた<2000年前に思いつけば良かったかも知れないが今では何の役にも立たない

そこで(クローズドの名簿がある)知り合ってメール交換しているB氏はエアフォース所属であるらしく、時々日本に来ているようだ。確か今二人の(組織変えしたばかりなので)日本人で唯一の東京在住の私にメールをくれて、11月に来たとき話でもしようかということになっていたが滞在期間が短すぎてすれ違い。また1月に来るらしいのだが、さて今度はどうか?

エアフォースでない個人の言葉で、彼は今話せるのだろうか。
>>私が聞きたいことがあって入った日本人には顰蹙なところって、ここです(^-^;

Tue 12 Jun 2001 米米クラブ
何度も書いたとおり、21歳の時にいきなり
アメリカに1ヶ月滞在したのが私の海外体験の最初。
語学学校だったのでほとんど日本人と行動してました。
(まだ人見知りひどかったので日本人ともそうしゃべんなかったような気が。いま思えばもったいない!翌年の旅行で既に改善されてましたけど(笑))

で、日本人10人ぐらいでサンディエゴからサンフランシスコまで行きました。
サンフランシスコといえばでかいチャイナタウン、
街がSFの他の場所の空気と違って猥雑で生き生きしてて
わくわくしてましたが。
で、みんなで中華料理を食べに行きました。
驚いたことにみんな「米だ〜〜!!」と喜んでいる。
自分にはそういう感覚全くなかったんですよ。
みんなだいたい21,2歳だったんだがなぁ。
米食べなくて平気だったのは私だけみたいだった、、、
(むしろ学食のパンケーキが癖になって帰ってから作ったりしていた)

さて最近友人と電話でそんな話をしまして、
彼は仕事で行ったアトランタで体調崩して日本食を求めて
うっかり「ベニハナ」にいってしまった(なんかそれはまぬけな、、)
そうなんですが、和食でパワー得られるってのは生命力の上で便利なものがあるかもしれないなぁ。食のオリジンがあるってのは。
なにしろ私、家はパン食だったし自分が日本のどこ出身かも分からないんですよ。(生まれたところと小さいとき育ったところと思春期を過ごしたところと一番長く住んでるところが全部かなり距離離れて違う)

現在35歳、たまに和食セットなんか作りますがねえ。
さんまには大根添えて。でも、、、きっとまだ数ヶ月は平気だと思うぞ。米無くても。
・・・コスモポリタンということにしといてもらえませんか。

Tue 24 Apr 2001 電話帳ドロボー!
・・・・・が私の旅行時の趣味です。(こらこら)
最初はニューヨークでした。ちゃんと電話会社にお願いに行ったんです。電話帳売って下さいフォースーベニアって。そしたら家に配達するだけなんだよといわれたので、思いあまってホテルからかっぱらって来ちゃいました。
そのあと、御世話になってる編集プロダクションの社長とお話ししたとき、「俺もホテルで聞いてみたら、余分用意してるから大丈夫だっていわれたからもらってきたよー。」
よーし。いいんですね、ふふふ。
その後香港、イギリス湖水地方、(ロンドンは欲しかったのになかった、、)シンガポールと順調に電話帳は集まっています。
最近自分がいけないのでグアムに行った母に頼んだところ
「そんなことをしたら農協の恥だ」(農協の恥って・・)
と同室者にいわれてあきらめたそうですが。だから大丈夫なんだって。

最初に、NYの電話帳が欲しかったのには理由があります。
各国に多いMISSING CHILDREN。その広告が載っていました。
見つかる可能性のある子なら。おいてきたでしょう、きっと。
しかし、4歳の彼はいなくなって10年、知恵遅れ、10メートルも歩けない。(その前に倒れる、と書いてあった)
何より、薬がなければてんかんの発作を起こしてしまう。
名前から見ていいおうちの坊やなのでしょう。それでも
身代金などの他の情報もなく、、、
その後10年、今検索してもデータにはない。

一緒にいてあげたかったんですよ。ちょっとセンチメンタルすぎますが。
・・・その後の電話帳ドロボーに関しては言い訳の余地なしです。
>>MISSING KIDたち

Wed 14 Mar 2001 社長の約束
今日は、実際の旅でなく、ネット上の旅の話です。
5年近く前にもなるでしょうか、どこで知り合ったやら、一時私は、
カナダの息子さんが国連軍で、ボスニアで
地雷にあって亡くしたお父さんとメール交換しておりました。
お父さんから頼まれました。
「日本で地雷を作っている会社があればやめるようにお願いして下さい」
判りました、と返事したものの、ここは日本。
軍事産業に関わっている会社は確かにあるでしょうが
見つけだすのは大変です。

当時、私が通信上で関わっていたのは主に音楽方面でした。
そして、かの現代美術ユニット「明和電機」の社長が
「市場調査」と称してチャットに現れられていました。
たいていは吉本とかお笑いの話をしていた私と社長ですが、
「魚器」(なき)シリーズの、楽器のつぎが「武器」であることを知って私は社長にメールを送りました。
「こういう頼まれごとを預かっています。地雷は作らないでいただけますでしょうか?」
チャットにて「仰せの通り、地雷は作りません」との答えを社長からいただきました。
私の目の前にいた、「武器を作ろうとする日本の会社」が明和電機だった、それだけでお願いしたのです。社長(私と同い年)はそれをしっかりと受け取って下さいました。
美術家にとって、制作物を限定されるのは辛いことです。
それなのに。

それから、5年近く。
私は明和電機の製品に未だ「地雷」を見つけていません。
土佐社長。その弟さんの副社長。
私との約束を、いえ、私は仲介しただけです、
カナダのお父さんとの約束を、守っていただいているんですね。

(途中でHDDが壊れ、アドレスが不明になってカナダのお父さんにそれ を伝えられないのがとても残念です)

なんというシンクロでありましょうか、この時の「社長」土佐正道さんは4月を持って「35歳定年」として社長を退かれました。後任は副社長信道さん。。。。。あと、やはり「カナダとスイスを取り違えて覚える」というバカなことをやっていたことがやっと判明。以前からスイスでは変だと思ってましたが、、(だって、スイスがPKO??)最終手段、外務省ページで調べても判らず、「日本が国家として認証している国で国連加盟していないのは一カ国」ということだけ判明。これがスイスであることを調べるのに、、、外務省広報部に電話しました。お手数掛けました。こんなのが政治学やってたなんて情けなや。
>>ここが明和電機オフィシャルHP。

Tue 14 Nov 2000 こわれたことば
フリーツアーと名が付いているが
実は単なる航空券だけ、というアメリカ横断用チケットを使って
私は大陸を横断したのだけれど、申し訳程度にNYに2日とハワイに(結局NYが気に入って10日滞在したためあとが大変だった)
宿が付いていた。
ハワイになんて行きたくないんだけどなその分NYにいられるのが長くなるのに〜と思いつつ最後にバスに乗り間違えて住宅地を見学?したり一応シュノーケリングなんかやってみたり
ショッピングセンターに行ったりしていた。
(デューティーフリーは怖かった。何故街にいない日本人が集団でしかもバーゲンの乗りで!)

で、ショッピングセンターの食堂で一人ご飯を食べていたときのことである。
日系らしいおじさん二人に話しかけられた、が、何だか判らないのだ。元は日本語なんだろう、しかしどうにも意味が分からない。
「こちらでお生まれになったんですか?」と聞いてみた。
「はい、私たちは2世です」(何度も聞かれたのだろう、ここははっきりしていた)

「東京は、いま何区なんですか?」
「23区です」答えても判らないらしく何度も聞かれた。
それでも日本語で話そうとしていたし、私も英語では答えなかった。
彼らは、どうしても日本語で話したかったのだ。

Tue 3 Oct 2000 こんなこともあります


本当はNYの地下鉄でカメラなんか出しちゃいけないんですよ。
これは前日の夜景ツアー(夜とエスニックコミュニティーにお邪魔するときはツアーに混ざってました)で一緒だった女性とチャイナタウンに遊びに行ったとき。止める間もなく写真撮ってくれたのですが、まあ記念物としては大事なものになりました。
人がいなかったし改札の近くだったからOkだったんですけどね。これが大体私のアメリカ歩きスタイルでした。
(でもってこれはもう10年前なのよ(笑))

Tue 19 Sep 2000 30番バスに乗って
初めて行った海外は何度も書いたがアメリカのサンディエゴ、
それも中心部からかなり離れた大学をちょっと春休み中に語学学校が借りているところだった。
今でも中心部から30番バスに乗ればUnited states international universityが終点なんだろうか?大学の空き地にぽつりとバス停があって当時でさええらくぼろいバスが止まっていたが。
さて大学から中心部まではそのバスで1時間半かかる。
早く行くには途中のスーパー(Sav-Onだったかな)の前で20番バスに乗り換えると1時間で着く。
30番バスでのんびり行くとLa Jollaの海岸をそろそろと走ってショッピングセンターも(ファッション・バレーだっけ)通ってUSDかUCSDも通ってほとんど名所めぐりのようにとろとろ中心部に着く。
私が30番好きだったのは言うまでもない。・・大体20番に乗り換えようとして失敗すると何十分も路上で待たされるのだ。

語学学校は面倒見がよくてバンも出してくれてたけれど、着いて1週間「傘はいらない」とガイドブックに書かれたサンディエゴで雨続き。
バンで大音量でかけっぱなしのFMでDJが
「Rain〜in〜Southern〜California〜」ってあきれてたっけ。

Tue 19 Sep 2000 シンガポールへの間違い電話
シンガポールに行ったとき、一応行く前に向こうの事務所に
確認取っておこうと、パンフに載っていたところに電話したのだが
その番号が間違っていてどうも普通の民家にかかってしまったようで、電話にでたDasslimさんは「日本人と初めて話したよー」
と驚いていた。「でも日本人いっぱいそっちに行くでしょ?」と聞くと会ったことはないと言っていた。(後から住所と地図を照らし合わせるとなるほど観光客が通りそうにない場所だった)
いつシンガポールに来るの?と聞かれたので明日だと答えると
「So fast!」と、着いたら連絡くれと言っていた。
しかし短い期間だったのでばたばたしてしまい、Dasslim家に電話できたのは帰る前の日。折悪しく彼は遅くまで帰ってこない日だったようで、ホテルに電話下さいと伝えて下さいと言っておいたのだがかかってこず。電話ででもちょっと話したかったんだけどなぁ、これがあのフォレストガンプの言うところの(あの邦題は何なんだ)「一期一会」なんでしょうか。

Tue 15 Aug 2000 8月15日
そして8月15日が終わろうとする。

アイデンティティーがそこになくても、私は日本人であることを捨てられない。生き延びるために。

国のために自分のために他人のために死んでいった全ての人たちに、生きているものとして謝りたい。

かといって何が出来るかと言えばただ自分が生きつづけることと他人の生命の邪魔をしないことだけなのだが。
これだけでもできればいいのだけれど。

Tue 15 Aug 2000 ご近所さん
最近のニュースで気になるのは韓国関係。

NYは多国籍な街で(しかもコリアンな人々は非常に頑張っていた)ビジターの私もそれなりに受け入れられる。
・・・日本人観光客だと明かすまでは。

その時の私は初めてNYにたどりついた
ようやく大学を出ようとするひよっこで、
成田のポストにゼミ論を投げ入れて就職も決まってたし(会社の製品(文房具)の写真を成田とかNYの店で撮ってたりした)
ちょっとだけ一人前のつもりだったのだ。

NYのダンキンドーナツで、「コリアン?」と聞かれて
(何かよくそう聞かれたんだが人数の関係かな、顔がコリアンの人っぽいのかな?)じゃぱにーずと答えたら「じゃあ近所じゃん」(という感じの英語)
そのお兄さんはパキスタンの人だったのだが、何がショックだったって、その時私は4年間の政治学の課程を終えようとしていたのに、(←今思えば「それが何なんだ」なのだが)
パキスタンを近所と体感できなかったのだ。

「学生?」「ちがうよートラベラーだよ」
「トラベラーだったら俺、あんたの金取っちゃうぞ?」

嫌だったこともう一つ。この時本気で怯えてしまった自分自身。

Tue 15 Aug 2000 Dear Friends,Gentle hearts.
と言う書き付けを胸ポケットに入れて
NYの酔っぱらい街バワリーで死んでいったのは作曲家フォスターだ。

最近の女性誌を見て驚く。バワリーまでも仁別の名前が付いて
ショッピング街と化しているのだ。
あそこには大きなシェルターがあったはず。(核シェルターではないです。・・・核シェルターがあるのはもっと金持ちのところ。)
ホームレスの人々はどうしているんだろう。
まとめてとっつかまえて精神病院に入れるというのが
ありがちなやり方。ケネディだってそうしようとしたんだよね
(失敗したけど←ホームレス増加はJFKの失敗の結果だってご存じでした?)
町に住む人々はマンハッタンからも、新宿からも、
価値のある土地全てから追い出されて、
・・・私だって、そう変わらないんだよね、、、。

00/6/24 (土) 「フリオ?」
・・・スペイン語と言えばとっておきのネタがある。
グエル公園から乗ったタクシーのお兄ちゃんは英語勉強中の
なかなかいい奴だった。
彼が突然「フリオ?」と聞いてきたのである。
私の頭の中にはない単語だ。いや、ある。しかし、?
と考えたのか考えなかったのか私は反射的に
「ナタリ〜〜♪」
と歌っていた。(爆)
慌ててnononoと言ったところを見ると意味は通じたのだろうが(笑)
furio=「寒い」であることが判るのまでにはもう少し時間がかかった(笑)
・・・・・彼にとっても1,2を争うバカな客だったのではないだろうか?(笑)

まあ、そのほかにも話が弾んだ常として「Arigato」を教えて
(今まで何人の運ちゃんに教えただろう?)
帰国後はこうやって自分のバカをネタにしております(笑)

00/6/24 (土) 「道を聞かれる日本人」
日本人はよく海外で道を聞かれる。なぜなら安全そうだからである。
地元になじんでいるわけではないのだ(笑)

さて、英語圏以外にて。英語がほとんど通じないところへ行ったのはバルセロナだけだったんだけど、ここでも道を聞かれまくった。
地元の人は英語を話さない。アジア人をほとんど見かけないバルセロナで、
日本人は「歩く英語ガイドブック」なのだ。・・・なんどカメラ首からかけたいかにもアメリカ人観光客に突進してこられたことか、、、

不思議にも全く言葉の通じない人に聞かれることもある。
女性にスペイン語でいきなり道を聞かれて、判らないので英語は話せませんかと聞いてみたらダメで向こうはフランス語は?と聞いてきた。
(フランス語は文字を見たこともない)←たぶん(見たことはあるか)
こうなったら、と「日本語、、は?」と聞いてみるともちろんノーで、
ミロ美術館の前で文化の壁を乗り越えられない女二人呆然として見つめ合ったのである(笑)

00/4/27 (木) 「サンディエゴ・セレナーデ」
と、いうのはサンディエゴ育ちのTom Waitsの曲。
私が初めて1ヶ月暮らした国境の町。
今写真を見ればかなり田舎。LAに移動して「これがアメリカかっ」
と思ったもんな。
夜になると行き場のないメキシカン達が市電乗り場にたまって、
乗り込もうとする日本人の女の子に「それ終点まで行かないよー」
とか慌てて声をかけてくれたりする。

海軍病院の中のチャペルにはベトナム戦争のメモリアル。
名前だけが何百も刻まれた石碑がいくつもいくつも。

海辺には踏むとぷちっと音のする海草が落ちている。
数年後にそこで日本人が殺された平和な海辺の町。

"Never saw the sunshine till I turn off the light"
(Tom Waits "San Diego Serenade")

00/4/26 (水) 「おばちゃん、暇?」
94年、バルセロナからモスクワ経由成田行きフライトでのこと。
モスクワで一度機内清掃があったんですが、降りてみたら
アイスクリームスタンドがありました。
いっときますが空港内ですよ?DUTYFREEの真ん前ですよ?
なのに、ルーブルしか使えない!(爆)
あのアイス食いたかったんですが(笑)それよりもスタンドのおばちゃんがもう暇そうで暇そうで、、、、、、(笑)
あの「和風スナックFUJI」で有名なモスクワ空港内なのに、、、(笑)

ちなみにDUTYFREEで、一言だけ知ってる「スパシーバ」が
受けました。一言でいいんですよね。まずは。
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Arranged by [Naoto]
Base script [Shigeto Nakazawa]